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サラリーマンの仕事がない土日は^ー^

仕事は、サラリーマン。土日の休日に優雅な時間を過ごすのが趣味。野球・サッカー・相撲・映画・宝塚歌劇などさまざまなエンターテインメントの楽しさをお伝えするブログです。

今年の巨人の抑えは、沢村 拓一?????

 

2月11日(水)。本日は、祝日により仕事休^ー^。

休みの日は、いろいろなことをやろうかなと思いつつも現実は、朝起きて掃除をして疲れて昼寝をしてこの時間になってしまった 苦笑

 

最近は、ルーティーンとなりつつあるネットサーファインをしていると面白い記事が、

 


巨人の抑えといえば… 最近15年の守護神を振り返る (ベースボールキング) - Yahoo!ニュース

 

 ◆チーム最多セーブ投手
00年 槙原寛己 試21 0勝1敗9S 防4.12
01年 岡島秀樹 試58 2勝1敗25S 防2.76
02年 河原純一 試49 5勝3敗28S 防2.70
03年 河原純一 試23 0勝3敗7S 防9.41
04年 久保裕也 試35 7勝6敗8S 防4.08
05年 林昌範 試54 2勝2敗18S 防1.61
06年 高橋尚成 試35 2勝6敗15S 防4.94
07年 上原浩治 試55 4勝3敗32S 防1.74
08年 クルーン 試61 1勝4敗41S 防2.21
09年 クルーン 試46 1勝3敗27S 防1.26
10年 クルーン 試52 4勝3敗25S 防4.26
11年 久保裕也 試67 4勝2敗20S 防1.17
12年 西村健太朗 試69 3勝2敗32S 防1.14
13年 西村健太朗 試71 4勝3敗42S 防1.13
14年 マシソン 試64 6勝6敗30S 防3.58

 

巨人とは、不思議なチームだ。野球観戦歴20年にもなるがなかなか安定した抑え投手が生まれてこない。12年~13年にかけて西村健太郎が抑え投手として頭一つ抜け出したかなと思いきや去年失速。今年は、先発に再転向し再起を図るという。巨人という12球団から追われる立場で抑え投手のポジションを守り続けるというのは並大抵ではないとうことの証明だろう。

 

上記のセーブ投手記録を見ていて思ったのが

 

こんなのまだまだ甘い!!

 

 巨人ファンをしていて抑え投手に涙を飲んだ苦い経験は、上記2000年以前はもっとひどかった。上記の抑え投手には、巨人に貢献しファンに涙をさせた選手たちだ。

 

そこでこの記事では、今までの巨人ファンの経験から涙をのんだ抑え投手について振り返りたいと思う。

 

 1996年  マリオ・ブリトー「愛称 スーパーマリオ」

 

 

成績

39試合 3勝2敗 19セーブ  防御率  3.33

来日初登板となった5月7日の対広島戦では4者連続三振を奪う活躍で初セーブをマーク。その後も主にクローザーとして起用され、前半戦終了時点で1勝14セーブの好成績でリリーフ陣の救世主的存在となる。しかし後半戦に入ると打ちこまれる試合が目立ち結局5セーブしか挙げられず、最終的にクローザーの座を川口和久に明け渡した。トータルで39試合に登板、3勝2敗19セーブ、防御率3.33という成績で「メークドラマ」と言われる逆転優勝に貢献し日本シリーズにも出場したが、後半戦の不振が響き1シーズンで退団となった。決め球は長身から放たれる落差50cmのフォークボールで「お化けフォーク」と呼ばれた。(※引用 wikipediaより)

 

印象に残っているのが、打者へ投げる前の投球ファームにおいて相手にフォークボールの握りがわかるようにいわば「予告 ファーくボール投球」は、当時話題を呼んでいた。

来日当初は、フォークボールがバシバシときまり好成績を収めていたが、後半は球筋を見極められ不調。1年で対談となってしまった。

 

 1992年~1995年  石毛博史

 成績

1992年   52試合      5勝3敗 16セーブ  防御率  1.32

1993年   48試合      6勝5敗 30セーブ 防御率   2.96

1994年   45試合      5勝4敗 19セーブ 防御率   3.14

1995年   38試合      4勝3敗 11セーブ 防御率   4.07

 

1993年には最高速154km/hの荒れ球のストレート(故障で肘が曲がっていることによる)とフォークボールスライダーを武器に30セーブを挙げ、最優秀救援投手のタイトルを獲得。1994年にもリーグ最多の19セーブを挙げる(高津臣吾と同数。最優秀救援投手は8勝19セーブを挙げた高津)。

 

1993年から1994年にかけて、当時の監督であった長嶋茂雄は、セットアッパー橋本清と共に、勝ちパターンのリリーフコンビとしてこの二人を「勝利の方程式」と呼び、この言葉をマスコミの間に広めた。しかし、石毛自身は、1994年頃から橋本との関係で出番が一定しなくなり、自分の中で張りがなくなってきたと述べている。そして、与四球の増加などから登場時に相手チームのファンから歓声が上がるようになっていた。(wikipediaより引用)

 

 特筆すべき部分は、

与四球の増加などから登場時に相手チームのファンから歓声が上がるようになっていた

 巨人ファンからしたらもうたまらない。当時、プロ野球中継は、民放で最大延長が9時24分までであった。それ以降は、放送がなくラジオで結果を聞くしか方法はなかった。

 

9時20分ごろに2アウトまでこぎつけるもバッターに対して2者、3者と連続ファーボールすると放送終了し、ラジオに切り替える。

 

なおかつ、ラジオでも2ストライク3ボールフルカウントまでいき試合が終わるかどうかをラジオのアナウンサーの言葉だけで判断するのが気が気ではなかった 笑

 

そんなハラハラさせるのを思いだせる。

 

そして今では、伝説の選手となりつつある

 

1995年  ダン・ミセリ

 

もうこの選手は、忘れたくても忘れることができない選手。

 

成績

 

2005年   1勝2敗 防御率 5.89

 

伝説の4/6 横浜スタジアムで伝説が起こった。

 

4月6日の横浜戦では延長11回に巨人が1点リードしてセーブ条件が整ったため、横浜ファンから「ミセリコール」が巻き起こった

 

 

次の試合でも

 

4月7日の横浜戦では3-8と5点ビハインドの6回裏に中継ぎとして登板。先頭打者の種田仁を四球で歩かせると、クイックモーションの癖を見抜かれ種田にあっさり盗塁を許す。次打者の金城は一塁ゴロに打ち取ったが、佐伯に適時打、続く多村には2点本塁打を浴び1回3失点。試合後には「こんなリトルリーグみたいに狭い球場でやっているからだ」と発言した。

4月10日中日ドラゴンズ戦で9回表に登板をするが、試合は10点ビハインド(0-10)であり完全に敗戦処理扱いであった。2安打を許しながら4度目の登板にして初めての無失点。これが日本最後の登板となった。

 

 そして・・・・

来日前年の年俸は60万ドルだったが、巨人がオファーした金額は3倍近い170万ドルであった。ただしシーズン途中での解雇であったため、年俸はミセリ側との協議で契約期間の内2 - 4月までの3カ月分(5,250万円)を支払うことで落ち着き、全額支払いは免れた。

 

という結末であった。

 

まとめ

 

 抑えを沢村 拓一と聞いて昔の嫌な思い出を思い出してしまいました。 笑

 

   
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